正しいプライドがあるから「ごめんなさい」が言える。

エッセイ
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「ごめんなさい、言えるかな?」こんにちは、夕立P(@mofday)です。今回はちょっとお説教くさいお話をします。

人間、失敗や失礼をしてしまう場面なんて生きていればいくらでもあると思います。その際にひとつの区切りとして「謝る」ということが必要とされることもあります(もちろん、その場限りの謝罪だけでは意味がありません。その失敗や失礼の反省を活かし、今後の行動に反映させてこそだと思います)。

その際、よく「プライドが邪魔をして謝罪ができない」「そんなプライドなんて捨ててしまえ」という言葉が飛び出たところを何度か見かけました。ぼくはこれ、正反対だと思っているのです。そんなお話をさせていただきます。

謝ることは自分の失敗を認めること

ぼくは謝ることはまずこれをするための一区切り、すご~く大げさに言うと儀式的なものだと思っています。
謝ることで相手側にはもちろん、自分のやってしまった失敗を認めることを表に出します。

プライドがあるからこそ「ごめんなさい」が言える

これが重要だと思っていて、正しいプライドがあるということは「自尊心」があるということです。
それがあれば「自分の過ちをどうにかケリをつけたい」と考えるのではないかと思います。
それが「正しい道なら迷いはありません。」謝ることをしてはいけない場面というのは「自分が本当に悪くない」場面で、謝ることができないのは「自分が本当に悪くないと”誤認”している」か、「謝ることで自分の非を認め、相手に”負けた”と思ってしまう」からだと感じます。後者について、それは違うとぼくは思います。

失敗をしてしまった自分に打ち勝とう

繰り返しますが「正しい道なら迷いはありません」。やってしまった失敗についてはその後の態度や行動で筋を通していけばいいのです。その通過儀礼的なものがいわゆる「謝罪」というものなのかなと思います。
失敗を認められず、その「儀式」を拒絶するのは自分を甘やかし、過去の失敗から目を背けたまま正しくない道を進んでしまうことに他ならないと考えます。
まず「謝罪」そして「失敗から学んだことを行動や態度に反映」していけば、きっとその失敗もマイナスからプラスに転じさせることができるのでしょう。

まずは「I’m sorry in my heart」胸の内に少しでもそれがあるのなら「ごめんなさい、言えるかな?」
乗り越えられる試練を与えられたと思って、失敗してしまった自分自身に立ち向かってみましょう。

(ぼくも現在進行系でやらかしまくっている人間だから、色々気をつけないとなあ……)

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