嫌いの表明は必ずしも「悪」ではない。

エッセイ
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嫌いをシェアするのは決して好きではありませんし、気持ちのよいものではありませんが、そういう自由だってあるはずです。こんにちは、夕立P(@Yu_dachiP)です。

『意見を発信・受信することについて、改めて思ったこと。』という記事にて、下記のようなコメントをいただきました。


改めて自分の至らなさに気が付かされる「あなたの記事は嫌いです」を表明し、その根拠を示してくれた貴重なコメントでしたので、こちらで引用させていただきます。

コメント欄でのやりとりについて

卑怯者 より:

ツイッターでよく見かけるのでいくつか記事を拝見しましたが、所謂釣りタイトルのようなものも多くはっきり言って好きになりませんでした。特に、個人的な意見だと逃げ道を用意しておきながら、あなたがそれは違う、おかしい、こうあるべきだと思っている“個人的な”意見をあたかも正しい一般的な意見として述べている(と私は感じます)点は非常に嫌いです。あなたの各記事全てとは言いませんが、あなたの書く記事の全ては自身の正当化のための言い訳にしか見えない。だからあなたの書く記事は嫌いです。だったら見るなよ、そうあなたは思うでしょうね。あなたに言わせてみれば、私は単にあなたに合わないだけなのかもしれません。安心してください。もう見ることは二度とありませんから。見なければよかった。どうせあなたはこれを卑怯者の発言だと捉えるんでしょう。別に構いませんが。よく一年半も続けましたね。それでは執筆頑張ってください。

これに対してぼくが返したコメントがこちら。

タチやん より:
>卑怯者様(名前としてこう記載されているので失礼な呼び方になってしまうことをお許し下さい)

>“個人的な”意見をあたかも正しい一般的な意見として述べている(と私は感じます)点は非常に嫌いです。
こちらに関しては、そう感じさせてしまうところは確かにぼくの書き方に問題があるのだと思い知らされました。
「自身の言い訳のためにしか見えない」という部分に関しては、ぼくは「全ての議論は自己擁護」という考え方も世の中にあるという認識で、そして自身もよく陥るものだとして、それでも意見として発信しています。
匿名でコメントされていることと、二度とこちらの記事を見ないというのはこのコメントがそちらに届かないという意味も含めて残念ではありますが、こうしてわざわざ「嫌い」を表明し、その根拠を示していただけた部分に関しては素直にありがたいです。
届かない言葉ではありますが、どうかあなたがこうした場面で次は「卑怯者」を自称せずに”嫌い”と”根拠”を発信できたらいいのではと思います!
嫌いを共有するのは決して好きではありませんが、嫌いを表明する自由だってあるのですから。

嫌いを発信することについて

嫌いを発信すると、それが好きな人にとってはもちろん気持ちのよいものではありません。ですが、意見の一つとして表明する自由を抑える理由にはならないともぼくは思っています。
今回こちらのコメントを送っていただいた卑怯者様(こんな言葉で名乗らなくってもいいのに……)は、ぼくがよく使う煽り系のタイトル(釣りタイトルとよく言われますね)や「“個人的な”意見をあたかも正しい一般的な意見として述べている(と私は感じます)点」について指摘してくれました。

個人が意見を述べる大前提

ぼくはすべての意見の大前提として「公人ではない、個人が発信することはあくまで個人の意見であり一般論として扱うべきではない」と思っていつも意見を発信しているのですが、この方にとってはぼくとしては最悪である「一般論として述べている」ように写ったのですね。他にもそういう風に捉えられている方も多いのかなと思います。
そういう読者の方がゼロではない、ということも実態として示してくれましたので、匿名での発信とはいえ記事もいくつか読んでくださったところもあり、ある意味では真摯さも感じられます。

ゼロではなく、イチがあればそれ以上もあり得る

ぼくを見ているけど、ぼくのことは嫌いだ!という人がゼロではないというのはまぁ思ってはいましたが、今回の件で改めて一定数はそういう方もいるんだなと思い知らされました。ゼロとイチではその間に無限の差があります。「無い」ことと「ある」ことの違いとでも言いますか。「アンチ」とかいうネットでよく使われる便利な言葉がありますが、要するにそういうのに分類される方なんですね(アンチって安易に使われる面でも好きじゃない言葉ですけど)。

意見の否定は=「敵」ではない

反応をいただいた記事について、Twitterでいただいた反応のひとつです。今回、卑怯者様はコメントでああは言ったものの「嫌い」についての「根拠」を明確に述べられています。これは今後のぼくの執筆に対するひとつの課題として頭に留めておいた方が良さそうだ、とぼくは判断しました。単純に嫌いなだけだったら匿名で罵詈雑言を浴びせるだけで相手には十分に相手にダメージを与えられますので、そのあたりにやはり「この方はぼくのことをしっかり見てくれたんだな」と感じた次第です。

書き方について考えてみる

ネットで意見を発信する際には、ぼくに限らず「煽り文句」をタイトルに入れて発信される方はよく見かけます。またぼくが今回指摘されましたように「個人の意見」を「一般論」にすり替える、というように見せるというのも見かけます。自分がそういう文章を書いている自覚がなかったので、この指摘はかなり刺さりました。これについてはもっと執筆を続けて「伝え方」を鍛えるしかないので、それまでは叩かれようが批判も喰らおうが試行錯誤していきます。

単純に「ぼくのことが嫌い」なだけで、この内容のコメントを匿名とはいえ直接発信することはないだろう、それができる度量が向こうにはあったんだろうと判断したので、その方には伝わらないのだろうと残念に思いながらもぼくなりの「嫌いを発信することについて」考えてみました。
もちろん、それはトラブルの元になるリスクは圧倒的に高いでしょう。その「何故?」についても自分の中でしっかり見つめることも必要でしょう。その上で、出来る限り穏便に発信をこれからも続けていきたいですね。

勘違いしないでほしいのが「じゃあどんどん嫌いを発信しよう!」っていうつもりではなくって、そういうことが必要な場面もある、ということです。嫌いな感情の発露は別の方の嫌いを誘発します。相手に対して真摯さのない無責任な発言でしたら、まず確実にその代償を支払うことになるでしょう。今回ぼくがこのコメントに反応して取り上げたのは、多少なりともそういう真摯さを汲み取れたからに他なりません。

どんなに棘のある言葉を使っても刺さらない人には単に不快なだけですし、相手の言葉を汲み取る度量のある人ならば「煽り」をしなくても伝わってくれる……そういうスタンスに切り替えるのも、今後はアリなのかもしれませんね。ただでさえ罵詈雑言が飛び交うSNSで、さらに煽りたてるのは方法のひとつではあるにせよ不快を招く可能性は大きいのですから。

まとめ

意見・情報発信の難しさも本当に痛感しますね…… でもぼくは八方美人でいられないタイプなので、今後も自分の意見として色々出していきますよ!一般論っぽくならないようにが当面の課題かな。この記事もまだ言葉足らずなところがあるかもしれません。ブログを続けて1年半、文章書きとしては全然未熟者です。でも続けなければそこから脱することもできませんから。

最後に、コメントを残してブログのネタ及び考えを改めるきっかけを作ってくださいました卑怯者様には改めて感謝をします。もう読むことがないと仰られていたので、この言葉が伝わることがないであろうというのが残念ですが……
ありがとうございました!

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